第十話、その意味


「……うっ!?」
僅かに肺腑の上を掠めた爪から逃れようと
必要以上に大きく飛び退いた――単に平衡を失っただけかもしれないが――男が、
背後の壁に衝突し驚いたような声を上げながら派手に転倒するのを、サラマンダーは無感動に見下ろしていた。
本末転倒。下半身を地に着けてしまえば、それだけで人体は著しく動きを制限されてしまう。
周囲には護衛らしき者も数人いるのだが、既に護衛が護衛たる働きはしていない。声もなく倒れているだけである。
それでも男は起き上がろうともがいていたが、そのこめかみに爪の先端を突きつけてやるとそれもなくなった。
「たっ……助けてくれっ!」
男は未だに訳が分からないといった顔をしつつも、とりあえずは自分の身の危険だけは感じたらしい。
寸分の乱れもなく撫で付けられた髪に、黒を基調とした服。あからさまに金がかかった身なりだが、
中身と一緒に夜も更けた街の路地裏に転がっているとあってはそれも台無しである。
革張りのソファーか何かの上にいたならいざ知らず、今目の前で恐怖に満ちた視線を向けてくる男が、
あのキング家やナイト家でさえ密かにその行方を追う、とある商会の長であるとは誰が気付くであろうか。
「…金……金か? 幾らでも出す! だから……だから………」
自らの命が他人に握られているという状況にも慣れてきたのか、あるいはその逆か、男は段々と饒舌になってきた。
今までも何度となく請け負った依頼の度に似たような科白を聞いてはいるのだが、
やはり自分には馴染めない世界でもあると、サラマンダーはいつも考えてしまう。
しかしながら、半ば諦めにも似たこちらの沈黙を良い意味に解釈したのか、男の弁舌はさらに勢いづいたようだ。

――さて、どうしたもんかね……
今回、やはりこの男を目の仇にするというひとりの貴族から――正確には慇懃無礼なその従者から――受けた依頼は、
二度と奴が自分の邪魔をしないようにする、というものだった。逆に言えば、その後は知ったことではないのだろう。
かといってここで然るべき機関か何処かに引き渡しに行くというのも面倒くさいし、
下手な威嚇程度ではこの類の人物はまたいつか元に戻るであろうことが目に見えている。
――何だ……?
この時間は、静けさは何なのだろう。
必要無い。無駄だ。それくらいは分かる。分かっている。分かってはいるが………
分かっているのだろうか? 提示すべき模範解答は、どこか絵空事の世界のような気がした。
むしろ此処には居たくないと声なき悲鳴を上げる自分が、何処からかこちらを見ているようにさえ思えてくる。
「……」
いつもの癖で腕を組みたくなったが、片腕を動かす訳にもいかないことに気付いて止めた。
手持ち無沙汰になって再び自らの腕の先端に目をやると、男はまだ喋り続けていたらしい。
よくもまぁそこまで口が回るものだと呆れを含んだ眼差しを向けてみるが、それに気付く様子もない。
特に理由も見つけるのも何だが、
どこぞの貴族のもとにでも引きずって行ってやろうかなどと妙な事を半ば本気で考えていたサラマンダーが、
今まで聞き流すに任せていた男の言葉に何気なく注意を向けたのも、
言うなればこの愚にもつかない袋小路に退屈したからとでも言えるかもしれない。

「……、……そ…そうだ、き、君は焔色のサラマンダーだろう? 知っているぞ、確か君は……」

「黙れ」
低く押し殺した恫喝の声に、男は文字通りびくりと肩を震わせて声を失った。
偶然は時に、必要以上の偶然をも伴ってやって来るものだ。その上、嬉しい偶然というものはあまりに少ない。
静かであるとは言え、人払いなどしている訳もない街の一角で迅速に行動を起こさなかった自分を呪いながら、
サラマンダーは爪を引き寄せると素早く男の胸倉を掴んで手元に引き寄せた。
月明かりの下で男の顔を三度確認し、ついでに刃を喉元に突きつける。際どい場所に、一直線に血が滲んだ。
「…何故だか分かるな? 心当たりがあれば手を引け。二度目は……ない」
言葉の意味が頭に染み込むまでの僅かな間を取り、足りない空気を求めるように口を動かす男を突き放す。
半分以上宙に浮いていた所為もあったのか、男はかなり危険な音と共に市壁に叩きつけられ、地に転がった。
軽く痙攣しているところを見ると、気絶したらしい。それだけ見届けると、サラマンダーは腕から爪を外し踵を返した。
目標の人物を路地裏に転がしたままとなれば依頼は放棄したようなものなのだが、
男も暫くは動けないだろうし、警邏の一人や二人が来ないということもないだろうと高を括った。夜明けも近い。

………もとよりこちらの世界での信用とやらも今更なのだ。
――焔色のサラマンダーか………聞いて呆れる……
いつもの……否、かつての自分であれば、別に悩むことも無かった。
ただ諾々と、自分のやり方で依頼をこなすだけ。あのような無責任な真似は決してしない。
それが天職であり、生きることだった。生きるための業、業を成すための生。
……だが、焔色のサラマンダーは、何時の間にかいなくなってしまった。それはいい。もう、いい。
気付いていなかった訳ではない。何時か何処かの場面で予想もしていた。
しかし、自分が英雄として生きるのか? 英雄は、英雄として生きて英雄たり得るのか?
霧が全てを純白に塗り潰す世界を浄化したとしても、人はいつか虚無へと還る。
記憶は残る。確かに残る。そのことは、数か月前の旅で嫌と言うほど教えられた。
ならば自分は、記憶の中の英雄になるのか? 英雄として生きるのか?
――…………違う………俺は……英雄なんかじゃない……
英雄の自分が生きるならば、そうでない自分はどうなる?
人々が好んで口にする伝説だけが残るとすれば、その他の記憶はどうなる?

死にたくない。

世界に認められぬ生を果たすか、あるいは大きな流れの中で溺れ死ぬのか。
何かに追い立てられるように、サラマンダーは行くあても無くただ夜の闇の中を歩き続けた。


 その噂は、何処からか密かに、しかし今では確固たる実在性を持って人々の耳へと届く。
かねてから周囲には人々の囁きの類の絶えなかった仕事人ではあるのだが、
常に絶大な畏怖と幾ばくかの妬みと共にあったそれとは全く趣を異にしていたということもあっただろう。
ようやく平和にも慣れてきた大陸に突如襲い掛かった戦火は民衆をも巻き込み、
そしてそれ以上、気の遠くなるような時間を漂い続けてきた霧の消滅、復活、そして消滅。
人ならぬ身の介在を許さなければ説明どころか納得しようもない出来事の連続に、
人々も、そしてその裏側に確かに存在する社会も混迷を極めた。
始めはその混乱に伴った出所の知れない風聞だと考えた者も少なくなかったようだ。
それほどまでにその噂は突飛であるように思えたし、あまりにも不釣合いでもあった。
しかし、酒の肴に話を聞き、気を大きくした輩が野心に任せて叩きつけた刃も難なく弾き飛ばした男が、
世界を救ったとも言われた腕を落としただの、はたまた臆病風に吹かれたということがある筈もない。

曰く、あのサラマンダーは、今回の霧の消滅に一枚噛んでいる。
曰く、頑なに一匹狼を貫き通していた賞金首が、数人と共に旅をしていた。

その首に莫大な賞金を懸けられてもなお夜の闇からその名を消さずとも、転落は速かった。
標的を亡き者に、といったような依頼はぷっつりと途絶え、ある種の栄光をも抱えていた肩書きも消え去った。
ただひたすらに強さを求めた者の、突然の離反。
野卑た笑いと共に語られたその噂は、いつしか不可解な謎へとその姿を変容させていた。
数十日間にわたりこの世界から姿を消していた当の本人がそのことを一顧だにしていない、
ということもそれに輪を掛け、最早謎は謎のままといった感さえある。
額面以上の意味を見出せないそれは、結局時間の波に飲み込まれもしないまま取り残されることとなった。

曰く、焔の悪魔は、人を殺さない………


 招待は突然に訪れた。
ここ数日間の仮の宿としていた小さな部屋に戻ってみると、簡素な白い封筒が残されていたのだ。
――尾けられたか……?
周囲の気配は裏の仕事を請け負うようになってから半ば習性のように読んでいるが、
昨日今日あたりではそのようなものは感じなかった筈だ。
単に気付かなかったということも考えられるが――通常、気配は何かに紛れ込ませるよりも探る方が難しい――、
サラマンダーの経験の内では、自分以外にこのような事が出来る人物は数え上げれば片手で事足りる程度の人数しか知らない。
その上……
〜新女王ガーネットの生誕日を祝い、アレクサンドリアにて劇団タンタラスによる公演を開催………〜
その辺りまで目を通した所で、サラマンダーは流麗な文字が踊る上質紙を机上に戻した。
これでは数人いた尾行候補者も見事に全滅である。
クロマ族の村での久しぶりの再会を忘れていた訳ではない。
いや、むしろ、忘れようとも忘れられなかったとでも言うべきかもしれない。
皮肉な思いで考える。あの時、そしてそれより前の何処か。この名とは何だっただろうか。
やはり、何か別のものの代名詞なのか。裏稼業No.1の男か、破格の賞金首か。あるいは、ガイアを救った勇者か。
……漠然とではあるが、彼らが呼ぶ名にはそのうちのどれひとつとして似合わないような気がした。
“自分がふたりじゃまずいのか?”
――……まずいんだよ………
かつては他人に向けた言の葉が、呪詛返しのように自分へとその矛先を向ける。
そういえば、あの竜騎士はどうしたのだろう。旅の途中では、自分は随分と偉そうなことを言っていた気がする。
事ある毎に傷を負い、何かに縋り、だが決して折れることの無かったひとりの人間。ひとつの存在。
あのような無責任な言葉から、何を見つけ出したと言うのだろう。
その答えは? その意味は?
  光は見えたのか?
――行ってみる………か……?
たまには先人の偉業に触れてみるのもいいだろう。模範解答を求める生徒の心地でそう思った。
言い訳臭いと言われればそれはそれで否定は出来ないが、言い訳も理由の一つである。
随分と軟弱になったものだと思いながら、サラマンダーは期日と場所を頭の片隅に書き記した。
そしてようやく気付いたようにランプに灯を入れ、ついでに招待状にも炎を触れさせた。


 一度は折れてしまった巨大な剣も今は元通りにそびえ立ち、よく磨かれた鏡面のような刀身を午前の鋭い光の中で煌かせていた。
傍目にも急速な復興が見て取れる街並みを縫うようにして、サラマンダーはやや早足でアレクサンドリア城を目指す。
本来ならば正門から堂々と入って来るのが普通というものだが、門兵にまで歓迎されるというのもやはり肌に合わず、
こうしていつものように路地裏へと足が向いてしまった次第である。最も、今は時間の所為か静かなものではあるが。
焔色を纏った巨大な人影の後ろには、奇妙な形状の戦斧を背負った小柄な女がひとり。
「ちょっとダンナ、アレクサンドリアまで来て一体何すんのよ?」
「……」
結局此処まで着いてきたラニも一緒に、街の中心となっている広場を通り抜ける。
街と王城をつなぐ船着場が見えてきたところで、ラニもようやく目的地を察したようだ。
「何、ダンナ、城に用があるの!? また依頼でも受けるつもり?」
言われてみれば、かなり前にブラネからもアレクサンドリアの国宝を取り戻すよう任じられていたのだった。
自分の目的は別のところにあったのですっかり失念していたが、実のところあれも放り出したままである。
「ンな訳あるか。街の様子を見てて、何か気付かなかったのか?」
「…?………飛空挺が結構飛んでたみたいだけど……」
注意深い者ならば、大通りでも気の早い店では既に軒を下ろしている事に気付いただろう。
しかし、人通りはいつもより妙に多いし、どことなく街中の空気も浮き足立っている。
その時、不意に足元の石畳が影の中に呑み込まれるのに気付いて、サラマンダーは答える代わりに天を振り仰いだ。
「……来たみたいだな…」
通常規格にかなりの範囲で改造が施された巨大な飛空挺が、その重量を持て余すようにゆっくりと空を横切っていく。
アレクサンドリア王家も贔屓の劇団タンタラスが誇る劇場艇、プリマビスタ。
国家の動きには疎いサラマンダーでも、エンジンに限らず霧を利用していた機工は全く使い物にならなくなったため、
最新式の蒸気機関の搭載に成功した一部のリンドブルムを除き飛空挺の普及率は一気に低下したと聞いたことがある。
霧を軍備の中心にまで取り入れていたアレクサンドリアやリンドブルム、
特に先の大戦で加害国となったアレクサンドリアでは、市民を中心に他国からの報復を危ぶむ声も上がったようだが、
シド大公が発表した蒸気機関開発の成功と技術支援、新女王ガーネットによる他国への謝罪と不可侵条約、
何より人々に争いなどしている場合ではないと思わせるには十分すぎる程の天変地異の連続に、
少なくとも暴動や略奪、あるいは革命、二度目の戦争などといった最悪の事態は避けられたらしい。
………ゆっくりとではあるが、世界は確実に再び歩き始めているのだ。
「うわ…………」
「…今日はアレクサンドリア女王の生誕記念祭。トレノなんかからも、かなりの貴族が来てる筈だ………」
同じく空を見上げて言葉を失っていたラニに解答を与えてやりながら、サラマンダーは城へと目をやった。
もうすぐ、ここに仲間がそろう。
ガイアを救った八人の英雄たち。何を思い、何に生きるのか。
……………イヤな空気を感じてふと隣を見ると、口の端を吊り上げたラニが非常に嬉しそうにこっちを見ていた。
「………ダンナってばちょっと見ないうちに、随分いいご身分になったじゃない?」
「…やかましい」
どうやらサラマンダーもまた内々に招待されているという事を察したらしい。
……まぁ的を射ているといえば射ているのだが、そう言われると見も蓋も無いものである。
妙なところではやけに勘が鋭いことだと脱力しながら、サラマンダーは嘆息とともに踵を返した。
が、
「…行かないのか?」
ラニは少し遠くを見るような表情で、その場に立ち尽くしたまま動かない。
「いいわ、私はパス。あの娘たちにはとても会えないわよ」
自分に言い聞かせるようにそう言うラニも、恐らく何か思うところがあるのだろう。
変遷を経て立つべき場所を見つけた者の姿に、いくらかの羨望と、あとは仕返しの意味も込めてサラマンダーはぼそりと呟いた。
「………変わったな、愛の狩人」
「うっさいわねもともとはダンナ達が勝手に外側の大陸から帰っちゃうからでしょ死ぬかと思ったのよ私は!!」
別に変わってはいなかったなと、サラマンダーは自らの発言を取り消しつつ渡し舟へと乗り込んだのだった。


「ふむ、来たか。久しぶりじゃのう」
二度目の再開は余りにも呆気無くはあったが、月日の流れを如実に表してもいた。
女王として華やかな衣装に身を包んだガーネット――いや、ここではダガーと言うべきか――に、
隣を固めるのは鎧が少し古びたような気がするスタイナー。反対側にいるのはあのベアトリクスだろう。
寸分違わぬ姿でありながら、行動力に関しては父親のものを全く反映しなかったらしいビビの子供たちに、
少々身長が伸びたような気がするエーコ。今はリンドブルムのシド大公の下で暮らしているそうだ。
先ほどから部屋を出たり入ったりを繰り返しているクイナは、ク族としての経験を生かし、
料理長としてアレクサンドリアの厨房を預かっている。大変な出世である。
そして旅の後、ブルメシアへと帰ったフライヤ。
近くにはまだ幼さの残る少年と、竜騎士と思しき見知らぬ男がいた。
短いようで長かった時を経ての邂逅に弾む会話を眺めながら、サラマンダーは周囲の空気を持て余していた。
違和感。
妙な覚悟を決めてここまでやって来た割には、やはりこれを馴れ合いと感じる自分がいて、同時にそれもいいだろうと感じる自分もいる。
ガイア中を駆け回っていたあの頃と、同じような気がするのだ。否、何も変わらない。拍子抜けしたと言っても良い。
ズレているのは自分か? 自分以外の誰かか? あるいはその両方か?
「これ。しばらく見なんだかと思えば、何を黙り込んでおるのじゃ」
かけられた声に振り向くと、いつの間にか紅い外套に身を包んだフライヤがすぐ側に居た。
少し距離を置いていたにも関わらず接近にも気付かないとは、我ながら抜けているものだ。
自分はさぞかし間抜けな顔をしているのだろうと思いながら、
サラマンダーは何か気の聞いた――と言うか何と言うか――ことでも言おうと口を開く。
しかし押さえつけたはずの葛藤は理性の枷を押しのけ、外界への風穴を開けその姿を具現化させる。
「ふん。…………てめぇこそ……竜騎士は廃業したんじゃなかったのか?」
「さて、どうじゃったかな? まぁ日々の糧が無ければ生きてゆけぬしのぅ」
一見してブルメシアからの公使としてこの場所にいると分かる状態で、この問いかけは際どいものであったに違いない。
しかしながら当の本人は涼しい顔ではぐらかし、隣にいた竜騎士も何も聞いていなかったかのように微笑み、
くすんだ金色の肌をした少年に至ってはサラマンダーの素性を知っているらしく、本人を前に興味津々という始末。
やはり何かが違うのだろうか。サラマンダーが思わず頭を抱えたくなった頃に、
ようやく眼鏡をかけた初老の男性が――何時だったか、ガルガントでトレノまでの案内を買って出た学者だ――開演を知らせてくれた。
一目散に駆け出していく黒魔道士とエーコたちの後に続いて、兎も角も観劇の席へと向かう。
最後尾について歩きながら広い廊下に出ると、既に集まっているらしい人々のざわめきが小波のように耳へ届いた。
……………やっぱりイヤな空気を感じてふと隣を見ると、あくまで微笑を崩さないもうひとりの竜騎士が歩いていた。
「始めまして、焔色のサラマンダーさん。ご評判はかねがね聞き及んでおります」
「…どんな類の噂だか知らんがな。お前………」
言外に得体の知れない奴と言葉を交わすつもりは無いと含ませるつもりであったのだが、
相手は不躾な質問にも眉ひとつ動かすことなくこちらの科白を何とも好意的に解釈したらしい。
「自己紹介が遅れたようですね。ブルメシア王室付き竜騎士、
 フラットレイ・ハティと申します。…………最も今日は腕白王子のお守りで来たのですがね」
……その二つ名は、“鉄の尾”。
するとこの男がかつて最強とまで謳われた紅き槍の使い手だったということか……
職業柄、そういった話題に関しては敏感に情報を捉えてきたのだが、
まさかのほほんと自己紹介してくる輩がそういった手合いであるなどという局面は流石に予想だにせず、
サラマンダーは些かの動揺を表情に出さないように苦労しながら密かに男を観察した。
フライヤが時折ほのめかしていた“旅の目的”とやらも、ともすればこの騎士が重要な札を隠し持っているのかも知れない。
立ち居振舞いや言葉の端々からも、そのような自信が伺えるような気がした。
「……行方不明になったと聞いていたが…?」
つい苛立ちを含ませてしまったことを後悔したが、やはり相手は声色のひとつも変えない。
「ハハハ、やっぱりそういった所はお詳しい。いえ、紆余曲折ありまして、ようやく戻ってきたという感じですよ。
 王やフライヤにも随分迷惑をかけてしまいましたが、王都の復興もこの一年である程度は片付きました」
あっけらかんとした表情でよく喋るが、肝心なカードは確実に手元に残している。
自分に不利な流れを意識して、今度こそ会話は終わりという意味でフラットレイの数歩先に出る。
しかし、差し出されたのは追い打ちをかける札ではなく、今までとは微妙に異なる雰囲気をはらんだ一言だった。
「………彼女はもう竜騎士じゃない。僕には出来ないことが、貴方には出来るんです」
「何だと?」
抑制を振り切り完全に振り向いてしまったサラマンダーを捉えたのは、
目深に被った帽子の奥から向けられていた、今までよりは幾分穏やかな視線であった。
この男は何を求めているのだろう。何でもない、ただ夜の闇を漂うだけの人間に出来ることなどたかが知れている。
「何処にでもあるようでいて、無双のもの。貴方が求めなくとも、求められないものとは限りません」
謎かけのような言葉。そのようなものは大概、キーワードを知る者にしか分からないように作られている。
立ち止まったサラマンダーの傍らを、フラットレイが歩みを止めずに通り過ぎて行く。
そしてそのひょろりとした背中が振り返った時には、不可思議な空気はきれいに拭い去られていた。
「さて、急がなければ劇が始まってしまいますよ」


 設けられた観客席が静かになり、前口上も終わると劇はその幕を開けた。
語られるのは遠い遠い昔の出来事。ひとりの姫君と、ひとりの若者が織り成す、悲しくも一途な恋物語。
月日は流れ、埋められぬ身分の差に煩悶する二人は遂に新天地を求め全てを捨て去ることを選ばんとする。

「マーカス、あなたは王女という身分であるわたくしを好いておられるのでしょうか?」

――…俺は英雄でありたいのか? 焔の悪魔でありたいのか?

「王女という身分が結婚をするならばわたくしなんて、ただの人形に過ぎません」

――……ならば人形ではないものとは何だ?

「人形が笑うでしょうか? 人形が泣くでしょうか?」

――人たるものとは何なんだ?

「仮面を付けた人生など、送りたくもありません」

――人たるもの。それは、人……

鍵はここにあったのだ。
過ぎ去りし日々を想うとき、初めてその重さを知る。
今の自分を否定し、さらにその先を目指すことは確かに強さであるかもしれない。
だがそこには、いつの日か限界が訪れる。
その時には歩き続けた遥かな道のりを少し、ほんの少しだけ引き返すのだ。
遠くから眺める壁は、目の前にあったそれよりも小さく見えることだろう。
それは弱さ。ある者はその弱さを隠そうとする。強さを自負する者はもう強くはなれない。それを知りながら。
ならばどうするのか。矛盾は排斥してしまえばいい。少なくとも自分の中からは。
だが
英雄ではない。悪魔でもない。それ以外でもない。
ただそこにあるだけの、ひとりの人間。ひとつの存在。
言ってみればそれが人。価値も何もかも、結局は決まるものではない。決めるもの。

交わした誓いさえも巨大な意志によって引き裂かれつつある中で、男は尚も待つことを止めようとしない。
暁の光にも見放された男が、縋るようにその願いを託すのは紅と蒼の静かな輝き。上天に浮かぶふたつの月。

「会わせてくれ、愛しのダガーに!!」

舞台の端に歩み寄った男が頭まですっぽりと被っていた長い外套を勢い良く脱ぎ捨てると、
何よりも最初にサラマンダーの目に飛び込んできたのは暖かな陽射しを思わせる金色だった。
そこここから聞こえるどよめきや驚きの声を意識し再び舞台の上の人物に焦点を合わせれば、
そこには見慣れすぎる程に見慣れた少年の姿があった。金糸の髪に、同じく金色の尻尾。
はにかむように笑うその少年、ジタンは、憎たらしいほどに何もかもを一顧だにしていなかった。
――こんのヤロウ……
思わず引きつりそうになる口元を辛うじて押さえ込み、二度目のどよめきが起きた方向へと視線を向ける。
観客を掻き分けて舞台へと飛び出した姫君を抱きとめたジタンが誇らしげな笑みを浮かべるのを見て、
サラマンダーは何故かどうでも良い事を思い出した。全滅したはずの尾行候補者も、ここでひとりだけ復活である。
やがてどこからか小さく始まった拍手は徐々に周りの者を巻き込み、
それに合わせてサラマンダーもまた舞台へと惜しげもない賞賛を送った。
雨だれの響きにも似て世界を包み込むその音に同調するかのように、
天にその刃先を向けるアレクサンドリアの大剣は優しく煌いたのだった。


 約一年前。余りにも突然に訪れた別れ。
しかしそれ以上の唐突さを持って帰還を果たしたリーダーに、宴はこれでもかと言うほどに沸いた。
いつもなら料理を作る方に回る筈のクイナも今日ばかりは仲間たちと共に席につき、
その所為かアレクサンドリアの厨房は蜂の巣をつついたような大騒ぎだったようである。
かなりの量の酒瓶もテーブルの上に並び――エーコに至っては次期ブルメシア王に召喚獣をけしかけたらしい――
最後には酒宴となったようではあったが、誰しも二度目の再開に笑顔を隠せなかったことは確かだった。
各々があてがわれた部屋へと引き揚げていったのは、日付も変わってからかなりの時間が経った頃。
サラマンダーはそのまま夜の風を求め城の屋上へと足を向け、空に広がる星の天蓋を見るともなしに眺めていた。
霧が漂っていた頃には一部の地域を除いて気候の変動は殆ど見られなかったが、ここ一年で随分と寒暖の差が生まれるようになった。
少し前に年がまたひとつ刻まれ、今はかなり肌寒い。
しかし、澄んだ空気の中の星々の輝きは、月と共に夜空に良く映えている。

と、夜気に溶け出し研ぎ澄まされていたサラマンダーの感覚が、向かってくる人物の気配を捉える。
円形のテラスのちょうど向こう側、ひとつしかない入り口の奥に見え隠れしていた影は、やがてその姿を月光の下に現す。
「どうした? いかにお主と言えど、風邪と無縁というわけでもなかろう」
「………それはこっちの科白だ…」
いつもの紅い外套は同じだが、羽飾りの付いた帽子は被っていない。
先程の席でいくらかの酒が入っているはずなのだが、フライヤは全くよどみのない足取りでサラマンダーの隣に並ぶ。
見慣れているはずのその姿と気配も、いつもと違った世界では何故かひどく違って見えた。
冷厳な空気が支配する空の下、ただゆっくりと冷たい風が吹き抜ける。
時の流れさえも凍り付くかと思われるほどの夜の世界。静寂だけがそこに佇むふたりを包む。
サラマンダーは無造作に柵に背を預け、フライヤはどこまでも近付いたふたつの月をじっと眺めて。
その夜空に語りかけるように、フライヤはぽつりと呟いた。
「……フラットレイ様を通して、お主の噂を聞いた…。………何ぞ、心変わりでもしたか?」
「………」
口調は何気ないものだったが、かといって独り言ということもない。
適当な言葉を捜すのも億劫で、サラマンダーは結局沈黙を守ることにした。フライヤはそのままの口調で続ける。
「…何をどうと言う腹づもりはないがの。昼間の話ではないが、お主、今に立ち行かなくなるのではないか?」
「お前には関係………」
「無いと言うか? ふふ、あれだけお節介を焼いておいて、今更何を言うのじゃ」
何が可笑しいのか、微かに含み笑いをしながらそう言うフライヤはやはりどこか気の抜けたような声で、
その瞳は何を映しているのかも定かではなかった。サラマンダーは僅かに柵に背を預ける。
「…もう焔の悪魔は……いない。……いない筈だ」
「…そうか……」
言葉は意外と素直に出てきた。我ながら適当かと思ったが、その意味は汲み取れたらしい。
しかし、フライヤが返した短い確認は、今までとはどこか違っていたように思えた。
サラマンダーは反動を付けて身体を起こすと、テラスの中心へ向かって数メートルの距離を歩いた。
「……それを聞いて安心したぞ…。そのような賞金稼ぎとは洒落にもならぬしの……」
くぐもったような声が、科白の途中ではっきりと聞こえたような気がした。
背を向けたままだったので確かではなかったが、フライヤはこちらを向きながら言葉を発したらしい。
再び訪れる沈黙。時期が時期であるからか、虫の声も聞こえない。月の光だけが、静かに降り注ぐ。
「………ブルメシアに来ぬか?」
――何を……
「…どういう意味だ………?」
「そのままの意味じゃよ。どうした、酒でもまわったか?」
軽口を飛ばしてくるフライヤの声はしいて言えばいつもより些か高揚しているようでにも取れたが、
それさえ大した違いという訳ではなかった。明日の天気の話をするような口調だ。
「なら質問を変える……。…何故そんなことを言う?」
「他意は無い。まぁ……言ってみただけじゃよ」
――………嘘吐け
言葉にはしなかったが、サラマンダーは即座にそう思った。
そもそも、冗談とは言えフライヤがそのような事を軽々しく言い出すとも思えなかった。
三度訪れた沈黙。だがフライヤは何かに耐えるようにもう一度振り返り、星空へと視線を彷徨わせる。
かなりの時間が流れた後、サラマンダーはフライヤの方に向き直り、ゆっくりと口を開いた。
「………俺はな……」
フライヤもまた、柵から身体を離しゆっくりと振り返る。
「……俺が賞金稼ぎを止めたのは、ついさっきだ。多分、あいつらの所為もあるんだと思う」
あいつら。しかし、それがこの場所にいない第三者のことだけを指しているのではないことに気付くのは容易いだろう。
「…だからまだ分からない。……でもな、いつか、遠からずきっと、何かが必要になるだろう…。その時は……」
その時は必ず、

オマエニアイニイクヨ

言葉が尽き、自然、視線を彷徨わせるのと同時、サラマンダーとフライヤとを隔てていた距離は呆気なく消滅した。
弾けるように駆け寄ってきたフライヤはサラマンダーの左腕を自らの震える両手で掴み、そのまま俯く。
フライヤはやはり押し殺した声で呟くように言った。今までとは逆に、その語尾は大きく震えていたが。
「……その言葉、信じてよいのじゃろうな」
「…ああ」
ほんの少しだけの、肯定の言葉。それで充分だった。
……言の葉に託したとしても、伝えられぬことがこの世には数え切れぬほどあるのだから………。
フライヤは静かに、ごくごく静かに呟いた。

たった一言、ありがとう、と。


 暁の光は見えない。
だがそれでも、星の光と月の導きだけを頼りに焔と紅の影は歩き出す。
その行き先は知らない。決められてさえいないのかもしれない。
ただ歩き続けるだけ。その行為こそが、己が存在証明であると言うかのように。
自ら巻き付けた錨はもう無い。彼等は縛られず、だが彷徨うこととてまたあるのだ。
時に絆を生む出会いに感謝し、時に無常な別れを嘆き。
時に選択を誤り、時に後ろを振り返り。傷をその背に負い、誰かに押し付け。
しかしそれら全てが刻印された道の全てを、彼等はいつの日か再び辿ることだろう。
……自らの意味など、光など、その時にでも見つければいい。
今まさにひとつとなったふたつの月が、あたたかなクリスタルのように地上を見守っていた。


(了)

Before

 


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