また、あの星がやってくる。
噂を聞きつけて、私があいつと共にそれを見に行ったのはもう……随分前のことだ。
真夜中にこっそり家を出て、いつものフミキリに。今にして思えば、我ながら幼稚な企みだったかもしれない。
結局その企みは発覚することとなり、あいつも私も今までにないほどこっぴどく叱られたものだった。
そして……あの頃と今では、様々なものがその姿を変えた。
それを間違ったことだとは思わない。むしろ、それが当然のことだろう。諸行無常、などと言うつもりはないにしても。
だが、思い出はいつも甘美だ。
あの頃、あの場所には、自分を叱ってくれる母親もいた。秘密の約束を交わす仲間も、すぐ側にいた。
世界には光が満ち、風景はいつも鮮やかだった。ただただ過ぎていく時間を浪費しているだけでよかった。
しかし、いつしかそれらは目を背けるべき対象となり、目の前にはいつでも乗り越えなければならない障害が置かれた。
同じように時間を過ごしていた周囲の者たちは、一人、また一人と何かを目指してそこから去っていった。
世界からは光が減っていき、自分の目の届く範囲は、遥か彼方が見える方位は狭くなっていった。
今までじっとしていた場所に留まることは許されず、だからといってどこに行けばいいのかも分からない……
そう、私のような存在の前には、一見するとどこまでも長く頑丈なレールが敷かれた。その上を走ればいい、というのだろう。
そんなものは信頼できない。でも、他に信頼できるものも、何一つ無い。
何故、どこかに行かなければならないのか。
何故、今までのようにしていてはいけないのか。
疑問は常にあった。しかし、それを口にするほどの幼さも、無謀さも、勇気も何もかも、私はなくしてしまったらしい。
数字にすれば簡単な、しかし思い出そうとすれば困難といった年月を経てもなお、鮮明な記憶。
巡り還る流星の話を耳にすると、いつのまにかその記憶を手繰っている自分がいる。
頭のあたりに置いてあった時計に目をやる。二本の針は、真夜中を少し過ぎた、という程度の時間を示していた。
――……約束…か………
眠れない夜に決別して、私は立ち上がった。

軽く身支度を整え、あの日とは違う道を辿り、私はあのフミキリを目指した。
最後の上り坂を前にして、いつかそうしたように丘の天辺を見上げる。そこには………光?
「あ、やっぱり来たね。お〜い、こっ……」
「手を振るな手を! 時間を考えなさいよね……って、何であんたは全く同じ言動をしてるのよ……」
「あれ、そうだったっけ?」
梅雨明けの夜気。囁きで交わす会話。以前と変わっていないものの中で、あいつはやはりそのままそこにいた。
勿論背格好は随分変わったが、その瞳には隠しても隠し切れない、幼稚さと熱とが入り混じってる。
残された数少ない理想郷。口では違う言葉を吐きながらも、私はそれを感じてどこか安らぎにも似た感覚を覚えた。
漠然と夜空を見上げる。傾き始めた月は闇に映えていたが、星の輝きはところどころで途切れていた。
「天気予報、晴れって言ってたんだけど……」
空を見ていた私が天気の心配をしていると思ったのか、あいつは今回も持ってきたらしい、ラジオのスイッチを入れる。
音量を絞った小さなスピーカーは天気の心配は無いと伝えていたが、何しろ時間が時間だった。
明日の朝ならいざ知らず、今はどうなのか分からない。何より、夏のころの天気は変わりやすい。
あいつの手の中で、小さな懐中電灯が光を発する。先ほど見たまたたきはこれだったのだろう。
その光が照らし出すのは尖塔のようなフミキリのシルエットに、街へと下っていく道。そして……
「……望遠鏡?」
「あぁ、あれね。役に立つか分からないけど」
ここから少し離れた草地に据えられているのは、素人目にもかなり立派な天体望遠鏡だった。
既にその視野を東の空に向けて、三脚で固定されている。
数年前のような流星群を見るのなら、あいつの言う通り役に立つかどうかは微妙なところだが、
そもそもあいつがこのようなものを持ち出してくるとは意外だった。
あいつはゆっくりとそれに歩み寄り、細くなっている方の先端を覗き込みながらおもむろに言う。
「……そろそろ…だと思うよ………」
私もあいつにならって、東の空をじっと見つめる。黒々とした山の稜線に比べると、夜空はかなり明るく見えた。
その夜空にまた………かすかな光が弧を描いた。
――…来た……
流れ行く年月をものともせず、以前と全く同じく唐突に、それ……流星はやって来た。
思い出の中で、拡大解釈して記憶してしまったのではないかというほど激しく降り注ぐ光の筋。
それが今まさに目の前で展開されているのを見て、私は幼い目にもこの光景がそのまま焼き付いていたのだと知った。
「…すごい、見えるよ! 見てごらん!?」
興奮した様子でこちらを呼ぶあいつの声。言われるままに覗き込んでみた望遠鏡の視界には……何故か流れる光は映っていない。
「………見えないわよ?」
「あれ、おかしいな……。今見えてたのに」
私は望遠鏡から目を離し、肉眼で東の空を見上げた。光の乱舞はまだ続いており、そこだけ夜空がひときわ明るくなっているようだ。
何度見ても、魅せられてしまうもの。望遠鏡を通さなくとも、その美しさは充分に伝わってくる。
やがてそれらは段々とまばらになり、そして消えた。再び、遠い遠い宇宙を巡る旅に出たのだろう。
流れる静かな時間。たった今見たものを焼き付け、そしてそれに浸るための余韻。
「……やっぱり…きれい」
「そうだね……」
やがて自分の口から出てきた言葉は呆れるほどに陳腐だった。
見せられた光景に追いつく言葉というものが、そもそも人間には欠乏しているのかもしれない。
だがあいつは頷き、そして微かに笑い声を洩らした。

あいつと一緒に帰路についたのは、それから数十分後のことだった。
あいつは三脚付きの望遠鏡を器用に担ぎ上げ、私の隣で坂をゆっくりと下りていく。
微かに聞こえる遠雷。先ほど空は明るかったが、危惧した通り、もうすぐ雨が降るかもしれない。
そしてようやく街の入口に差し掛かったところで、あいつはぽつりと、ひとつの言葉を洩らした。
「…僕……さ、いつか星の研究でもしようかな………。星、好きだしね……」
――……そっか………
他の者がそうであるように、あいつもまた……進むべき道を見つけていたのだ。
いつも胸のどこかに在った、最後の理想郷。それが今、どこかでほころび、ひび割れていく。
ずっと、こうしていたい。
ずっと、腐れ縁のような関係でありたい。ずっと、幼馴染でありたい。
無垢なだけに手のつけられないそんな願いに従うなら、泣き出すなり、怒るなり、そんな反応も出来たかもしれない。
どうして皆、そうなのだ、と。どうして私だけが、道を見つけられないのだ、と。
しかし、自分がもう子供ではないのだと冷静に告げる部分が、それを阻む。
あいつの選んだ道を閉ざしてはならない。自分の理想郷が、他人にも理想郷になるとは限らないのだから。
望遠鏡を通して、自分には見えなかったのに、あいつには見えた流星。
――……そっか………
あいつはまだ子供なのだ。子供であるが故にその瞳は遥かな光を捉え、そしてそれを目指すことができる。
皆もそうなのだ。大人になりながらも、どこかある限られた部分では、ずっと子供で在り続けている。
そしてその部分で、何か大きなものを育てている。それが芽を出し、花をつける日を夢見て、歩いていくことができる。
子供である部分と大人である部分の、奇妙な共存関係。
それはいつも大人にならなければならないと警告を受けてきた自分にとっては、思いもよらない選択肢だった。
願わくば、今こそもう一度子供に戻りたい。
その輝く瞳で、暗闇の中の一筋の光を見つけたい。それを目指して歩いていけるようになりたい。
しかし、共に光を探していた存在は、もう歩き始めてしまった。
ならば自分にできることは…………それを見送ることのみだ……。
「……いいんじゃないの? 応援するわよ………」
弾けるような笑顔を浮かべたあいつとは対照的に、私は震える手を握り締めるので精一杯だった。
ぽつり、ぽつりと雨粒が地面を叩き始めた。流星が宇宙に旅立って、ようやく降ることのできた雨。
旅立つものが発った後に、人知れず流される涙。
それを隠したまま、私は歩き続けた。


Next
Before

 


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送