第二部


あの出会いの夜から、既に一月ほどが経ったのだろうか。
夜半に顔を出す月は日に日にその蒼さを増し、街の人間たちの様子も日に日に楽しげになっていく。
そういえば、大通りやその店先には赤や緑の飾りが増えている気がする。前の冬も見た、人間たちの祭りか何からしい。
………そして俺はまだ、『奴』の隣にいる。
出会ってからしばらく経って気づいたのだが、『奴』はどうやら絵描きらしい。
毎日夜が明けると、町の公園や広場に出かけて行き、そこで日がな一日絵筆を握っている。
ニンゲンではない俺の眼にも分かる程、『奴』の腕は見事なものなのだが、
そもそも『奴』がただ絵を描いているだけなのか、それともその絵を売ろうとしているのか傍目には全く分からないため、
『奴』の絵が誰かの手に渡り、代わりに『奴』が人間たちの言う「カネ」を貰う、というのはごく稀にしか起こらない。
それでも『奴』は、そのことには全く無頓着なのだから………
…いや、やめておこう。本当は何故『奴』のところにニンゲンが寄って来ないのか、俺にだって分かっている。
言うまでもない、そこには俺がいるからだ。
望んで生まれてきた訳でもないのに、俺の、夜を映し出したような漆黒の身体は人間に毛嫌いされている。
そんな俺のすぐ側に座っているような『奴』は、何を考えているのか知れたものじゃない、そんなところだろう。
今までにも数度、俺と『奴』を明らかに汚いものでも見るような視線で撫でていった人間の姿を見たことがあった。
俺だけならいい。そんなものには慣れている。
だが、『奴』までもとばっちりを受けるのが、何故だか俺には辛かった。
前に一度、俺がいるから『奴』が避けられているのだと気づいたとき、
俺はせめて昼間だけでも『奴』から離れていようとしたことがあった。
目を覚まし、いつものように街に出て行こうとした『奴』を、俺はいつもの裏路地で見送った。
いや、見送ろうとしたのだ。
だが『奴』は数歩ほど進んだところで、俺がついてこないことに気付き、路地の入り口で不思議そうにこちらを振り返った。
そしてまた、あの、どこかで泣いているような微笑を浮かべ、膝をついたのだ。
その笑顔が、差し込む朝日の中で消え去ってしまいそうで。
その笑顔は、親鳥からはぐれた小鳥のように儚くて。
気付くと俺はまた、あの夜と同じように『奴』に駆け寄っていた。
差し出された『奴』の手は、『奴』の不自然の程に薄い格好の割にいつもあたたかく、
そこに触れていると何故か心を許してしまう、そんなやわらかさと熱とがあった。
『奴』だって恐らく、街のニンゲンが俺を避けているのだということには気付いているだろう。
自分には無関心でも、『奴』は他人にまでそうなるような人間ではなかった。
――だけどそれでも、俺を必要としてくれるのか?
――俺はアンタの側にいてもいいのか?
その答えの代わりに、『奴』は決まって俺を抱き上げた。
俺が今までそんなことをされた訳はなくて、やはりどこか落ち着かなかったけれど。
………それでも俺は嬉しかった。『奴』と…離れたくなかった………。

ある日、『奴』は俺に名前をくれた。
『奴』曰く、呼んでもらえてこそ名前には価値がある、のだとかで、『奴』はそれから俺を名前で呼ぶようになった。
黒き幸、ホーリーナイト。
――何故俺が、「聖なる夜」?
視線で問い掛けた俺に、『奴』はこう答えた。秘密の約束を交わした子供のように、さも楽しげな声音で。
「今に分かるよ。教えてあげよう、聖なる夜がやってきたら、ね」

そしてまた、しばらく経ったある日。
その日の夕暮れが近付いてくるにつれて、俺にも何となく、「聖なる夜」は今夜のことなのではないか、という気がした。
『奴』の言葉もそれを肯定し、俺はそれを知った。
ちょうど一年前には全く気づかなかったことが、今なら分かる。
これも多分、『奴』のお陰なのだろう。あの日から俺はすっかり変わってしまったが、それでも俺は『奴』がいるだけで充分だった。
そう、『奴』がいれば………。
『奴』がいなくなってしまったら………?
その日も『奴』はいつもと同じように街に出て、同じように裏路地に帰ってきた。いつもと違うことなど、何もなかった。
だが『奴』はいつものようにそこに座り込み、壁に背をもたせかけ……二度とそこから立ち上がろうとはしなかった。
「………あれ?」
間抜けな呟きをひとつ残して、『奴』は何かを悟ったらしい。
――………まさか……
『奴』は震える手で――そう、滑稽なまでに激しく震える手で――商売道具の中からスケッチブックと鉛筆を取り出した。
そのページの中身は、殆ど黒ずくめ。
『奴』は夜中に、そして時には昼間にも、俺を描いていることがあった。
街頭の下で、あるいは僅かな月明かりの下で、『奴』何かを写し取るようにして鉛筆を動かし、満足そうに微笑んだのだった。
街の人間たちには流石に見せることはしなかったが、『奴』はそれをとても大事に残していたのだ。
そのスケッチブックから今、真っ白のページが破り取られる。
――………まさか……
急に押し寄せてきた恐怖に、俺は思わず一声鳴いた。
『奴』をこの場所に引き止めておこうとするかのように。
『奴』は一瞬こちらを見たが、俺を安心させようとするかのように微笑みかけ、そうしてまた紙の上に視線を戻す。
頭上には、冷厳なほどに蒼く澄んだ月。
……数分の後、『奴』はその紙をゆっくりと折りたたみ、俺に言った。
「……頼まれごとをひとつ、いいかな?」
――やめろ! そんな風に言わないでくれ!!
俺にどうこうできる事ではない。頭の、どこか嫌になるほど冷静な部分が、確かにそう告げていた。
でも、俺は、声をあげた。あげずにはいられなかった。
『奴』を……失いたくない………。
対して『奴』は静かに言葉を紡ぐ。そのひとつひとつに力を込めて。俺に何か大事なものを託すように。
「走って、走って……コイツを届けてくれ。夢を見て飛び出した、僕の帰りを待つ恋人へ……」
いつか『奴』が話していたあの場所。
湖と、桜と、そしてタンポポの咲く丘のある街。
――やめろ! 逝かないでくれ!!
こらえきれず駆け寄った俺を抱きとめた『奴』の手は、まだあのあたたかさを宿していた。
失いたくない。この手を。このあたたかさを。
――俺はアンタを失いたくないんだ!!
他者のとの繋がりを捨て去った、あの日々。
それはもう、今は戻らぬ過去の幻影。失って再び気付く、『奴』のあたたかさ。
「……約束、果たしてなかったね…」
――俺を……俺を独りにしないでくれ!!
『奴』は微笑んでいた。
それは全てを諦めた訳でも、自暴自棄になった訳でもない。
いつも通りの、やわらかな笑顔。あたたかな微笑み。
――………あぁ、そうか。
『奴』の強さはここにあるのだ。
誰かに何かを託す、与える、受け継ぐ。
そうして『奴』は意味のある存在となる。
『奴』はそれで満足なのだ。誰かに何かを伝えられれば、それだけで何もいらない。
ならば俺は……『奴』の最後の願いをかなえてやろう………。
それは、俺にしか出来ないことだから。
「ホーリーナイト、聖なる夜。
 闇があるからこそ、光はそこにある。
 人に忌み嫌われる悪魔がいるからこそ、天使は賛美されるんだ……。
 忘れないで、君は意味のない存在なんかじゃない。君には……僕がいるよ………ホーリーナイト」
――忘れないよ。忘れるもんか!
『奴』の手から手紙を受け取り、俺は出し抜けに走り出した。
『奴』は最後の最後まで、微笑を浮かべていた。
このことも、その恋人とやらに伝えてやろう。『奴』は笑っていたよ、と。
どうやらカミサマとやらは、俺にはどこまでも意地悪な存在らしい。
こんなにも早く、『奴』と分かれなければならないなんて、俺はもっと『奴』と一緒にいたかった。
でも、もう大丈夫。『奴』は俺を覚えている。俺だって同じだ。
そして願わくば、俺も笑って死にたい……『奴』のように…。
目指すは、三日月の光るあの丘から見える街。『奴』のスケッチブックにあった、一番最初の絵。
俺は走った。忘れたはずの慟哭を、押し殺したまま。


Next
Before

 


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送