第八話、夢が果てる処


 長い迷律の末に辿り着いた、自らの記憶が降り積もる場所。
その最奥にいるであろうクジャを目指して歩みを進めるも、
この悪趣味な道行きは未だ終着点をちらつかせることも無く、次から次へと新たな姿を提示してくるだけであった。
終わりの見えない不安、散発的に襲いかかってくる魔物。
要所要所で待ち構える、カオスを名乗るテラの遣いたち。そして記憶の具現化。
始めは空元気と言えどもそれを装う程度の気力があったが、最早溜息と舌打ち以外に聞こえるものは数えるほどしかなくなっていた。
――流石に……これは…
四方八方から常に向けられている気配に正直なところ辟易しながら、
フライヤは胸の内であえてその先の一言を消し去った。もう言うまでも無いことだ。
人のことを言えたものか定かではないが、少しでも妙な気配や何かを向けられれば、
即座に武器を掲げて飛び掛りそうな雰囲気が仲間の周囲には漂っている。
突然現れる幻覚は以前に比べていくらか穏やかになってきたものの、
訳の分からないものを見せられるだけ見せられた挙句放り出されるとあっては、
これが精神衛生の面で良い影響を及ぼすとは到底思えない。
メンバーたちは明らかに疲弊している。
空中に浮かぶ巨大な眼球を潜り抜けたところで、フライヤは慎重に先頭を行く金糸の少年に声を掛けた。
「ジタン」
「…なんだい、フライヤ?」
「気持ちは分かるが、そう急ぐでない。誰かが遅れれば、戦闘もおぼつかんぞ」
「そうだな。…………少し後ろを見てくるよ。ここにいてくれ」
そう言い残して、ジタンはたった今登ってきた階段を逆に戻っていく。
言われて始めて気付いたといった様子だったが、
ダガーやビビなどの記憶の影響を大きく受けている仲間には既に数十歩ほどの遅れが生じていた。
やはり焦っているのだろう。揺らめいて消えるその背中からも、焦燥の色が容易に見て取れた。
「……らしくねぇな…」
「仕方なかろう。あやつとて、受け止め難い記憶をも抱えておるのじゃろうて」
「………」
「……………いやまぁ、そうでないのもおるがの……」
無言で佇む焔の拳士の視線が、数歩ほど離れたところにいるクイナの方に露骨に向けられているのを見て、
フライヤは微かな頭痛と共にそう呟いた。
ここにやって来てからこの方、彼――なのかどうかは甚だ疑問ではあるが――の表情はとても幸せそうである。
「そういうお主はどうなのじゃ? 見たところ、平然としておるようじゃが?」
「……トレノの時といい、昔話の類は大好きってクチか?」
「すまんの。人たる身に限らず、好奇心には弱いものじゃ」
「知らん。どうでもいいだろうが」
連続する戦闘と幻覚に抗するという単調な作業に精神的にも疲れが見えてきた、
つまるところ少々退屈気味であった二人は特に意味の無い言葉を交わし……

……そこに唐突に、それでいて小さな気配が現れたのは次の瞬間であった。

抜かったと素早く振り返ったフライヤであったが、それが魔物のものではなくまたしても現れた幻のものであると判り構えた槍を下ろす。
だがその映像を認めたと同時、そういったものとは別の種類の戦慄がフライヤの脳裏を満たしていた。

風景は激しい雨。場所は林とも密林ともつかない程度に樹木が生い茂っているが、
虚空に映し出される範囲の殆どが開けていることからして、人の手が加えられていることは間違い無い。
どうやら夜間であるらしく、視界は昼のそれと比べると著しく悪く暗いが、その割に中央部分はやけにはっきりと見えるような気がする。

そしてそこには、薄い青の簡素な衣装に身を包み、敵意と警戒心をその瞳に湛えた少女が立っていた。
否、ただ立っているのではない。微妙に半身を引いたようなその姿勢は、不器用ながらも明らに何者かに抗するという意志が感じられる。
その証拠に、少女は指が白くなるほどに、その容姿には不釣合いな無骨な小剣をその手に握り絞めていた。
そもそもこの雨ではろくに前も見えない筈なのだが、そんなことは一顧だにしていないらしい。


――当然じゃ……『記憶』なれば…ある程度の拡大解釈がある筈……
目を閉じ、耳を塞いでその場から逃げることも出来た筈だ。
そのような苦労をせずとも、幻かと無視すれば済んだことであるし、ただ目を背けるだけでも随分違ったであろう。
しかし、目にした者を例外なくそこに縫い付けてしまう記憶の魔力に抗うことは、
フライヤにとっては何か途方も無いことのように思えた。まして……それが自らの内に在るものならば尚更のこと…。
少し離れた場所で、サラマンダーも同じように構えた爪を下ろすのが見えた。


 幻が動く。
手近な茂みから現れた黒服の男に、がむしゃらに斬りかかる少女。
技も何もない、ただの突進。どこから見ても素人にしか見えない。
対する男が懐から取り出したのは、冗談のように小さな短剣だった。
やろうと思えば、掌の内に隠してしまうことさえ出来るだろう。
だが、男はその短剣で少女が闇雲に振り回す剣の軌道を逸らす。
思わずつんのめる少女の四肢がすぐ近くにまで迫り、転倒するように差し出されたその顔面に………男は、下方から刃を突きたてた。
薙ぐように滑り込んだ短剣は、少女の左眼を的確に捕らえているであろう。
言うまでもない。致命傷だ。脳に傷が及んでいれば、既に死んでいるかも知れない。
しかし男は澱みない動きで短剣を引き抜くと、軽く血を払って鞘に戻す。
その表情には後悔も、驚きも、はたまた殺人者の満足や愉悦の笑みも存在しない。
あるのは恐ろしいまでの無表情。必要とされる作業をこなしただけとでもいった体だ。
そのまま少女の後ろに建っていたらしい小さな家屋に侵入し、時を置かずしてすぐに出てくる。
その時には似たような黒服を来たシルエットが複数になっていたが、それらもすぐさま闇に紛れて消えた。
残されたのはよりいっそう激しさを増す雨。そして地に倒れた一人の少女のみ。
まだ息があるようだ。浅く速い呼吸を繰り返す喉が、小刻みに震えている。
出血はかなり危険な度合いではあったが、どうやら即死は免れたらしい。
無論このままにしておけば、確実に忍び寄る死からは逃れられないであろうが。

………少女は泣いていた。その顔に叩きつけられる雨粒も、自らの傷さえ忘れたかのように、涙を零し続けていた。
嗚咽を発する体力も残っていないのだろう。ただただ、その雫が雨に混ざり地に落ちていくのに任せるのみ。
最早片方だけとなってしまった頑なな眼差しで、天を見つめ泣く少女。
そこには悲壮に散り行くものの美しさがあったと言っても語弊はなかったかもしれない。
……やがて幻は雨に流されたかのように滲み、かすみ、最後にはぼやけて消えてしまった。


「サラマンダー。先程お主、昔話の類がと言っておったな…。ひとつ、私にとある物語を披露させてはくれぬか?」
「…………」
後になってから思えば、どうしてその一言が自分の口から出てきたのか。
それは他ならぬフライヤ自身にも分からなかったが、対するサラマンダーは沈黙を返すのみ。
それを無言の肯定の意と取り、フライヤは静かにその『物語』を紡ぎ始めた。

「…あるところで、ひとりの幼子が家族と共に暮らしておった。
 特に何の変哲もない一家。父親はかつて王宮勤めの文官であったが、
 既にその位を退き、小さな村の教師の真似事をして生計を立てていたそうじゃ。
 じゃが、一部の人間にとっては、ただそれだけの人物という訳にもいかなかったらしい…」

もういい。もう、止めろ。どこか遠くの方から、そんな声が聞こえた気がした。
だが、そういった声にならない叫びに反して、現実に語る声はひどく静謐だとフライヤは心の何処かで自覚していた。
サラマンダーの方も『物語』の意味は分かっているらしく、続きを促すこともせず黙って腕を組み、視線をこちらに向けてきているだけ。

「ある夜、突然やって来た刺客によって父親は殺され、――最も、そうと分かったのは随分後になってからじゃったがの――
 母親とその子は親類を頼って何とか生き延びていたが、そのうち母も病で逝ってしまった。
 浮浪者同然といった様子で王都へと辿り着いた幼子は、やがて他国にもその名を知られていた竜の騎士を目指すようになった。
 ……力を求めて…」

ここまで自分を支えていたものが、ひとつ、またひとつと崩れ落ちていく。
そこでフライヤが得たものはどうしようもない虚無感と……そして不可思議な安堵だけであった。
それでもなお、やはりそこにあるのは震えもしない静かな声音と、それを包む沈黙だけ。

「その後、数年の歳月を経て騎士となったその子供はある日突然国を飛び出し、
 今では行方知れずになっていると聞いた。果たして、どうなったのであろうな……」

語られることのなかった物語はあっけない幕引きを迎え、
残されたのはひとりの観客と、ひとりの語り部。そこに介在する言葉は、最早一片たりとも見つからなかった。
あの時、ああしていれば。
ひょっとすると、今とは違ったかもしれない。
もしかしたら……。だがそれは、甘美な想像の世界という枠から出ることは出来ない。
おぼろげながら、理解しているのだろう。千の言葉で覆っても、万言を費やしても、『物語』には………過去には抗えない。
真も虚も、記憶に対しては無力だということを。
記憶の場所。そこは美しく、そして冷厳な処。
常に矛盾と葛藤を飼い慣らしている愚かな人間たちに、非情な回顧を迫る処。
人たる身においては、ただ沈黙を守る程度のことしかできない。

半ば強迫観念のような思考の停滞に、先に耐え切れなくなったのはフライヤであった。

「………私は、一体どうすれば良いのじゃ……
 私はもう、王を護る身ではない。王宮騎士たる自らの姿はもう見ぬつもりじゃ。
 されど、此処に居るのは誰ぞ?
 この身を支えるのは、疑うべくもない今までの数十年間。
 その宿命を捨てたとあっては、私が私たる所以はどこにあろうか?
 無論、ジタンには……サラマンダー、お主にも感謝しておる。
 この旅を共にしてからというもの、私が得たものは数知れぬであろう。
 今の自分…騎士ではない自分があるのも、ひとえに皆のお陰じゃよ。
 なれば今、私は騎士ではない。しかし足元には騎士の自分が居る。いや隣に居ると言っても良い。
 どちらかの自分が消えたとき、私はどうなるのか………
 私は…………怖い。踏みしめるべきその地さえも見えぬ自分が怖いのじゃ………」
ほころびを見つけた感情の渦が、やがて決定的な空隙を作り出すのを止める術は、フライヤにはなかった。
数刻前とは逆に、震えながら形を成す疑問は自らの意志を無視して際限なく飛び出す。
だが、そこにかけられたの、いつもと変わらない無愛想な声であった。
「つまるところ、お前はどうしたいんだ?」
「………分からぬ……」
嘲笑と侮蔑を浴びる異端者のごとく。
あるいは神の怒りに恐れをなす背約者のごとく。
自分の在り様さえ満足に把握できない者に、何があるというのだろう。
「そう言うだろうと思ったさ。だがな、あれも嫌だこれも違うとなりゃあ、
 もう先には行けない。進まない。そのくらいは理解できるだろうが」
「……」
全くだ。疑問を差し挟む余地もない。正論などと言われるまでもない。破綻しているのは自分だ。
だが……それでもなお消すことの出来ない、この焦燥感は何なのだろう………
「……質問を変えるぞ。どうしてそんなにも、自分を嫌う?」
「…え?」
「何もしない、今のままじゃあ駄目なのか? 過去も現在も、動かす必要があるのか?」
予想し得ない、否、考えもしなかった答えだった。
フライヤは自分が今かなり間の抜けた顔をしているのだろうと、場違いなことを考えた程だ。
サラマンダーの言わんとすることを理解できないということではない。
しかしそれは、果たして意味があることなのか。それで何かが、変わるのだろうか。
「しかしそれは……」
「過去を捨てろと誰が言った? 過去と現在は折り合わないと誰が決めた? 自分がふたりじゃまずいのか?」

……暗く深い奈落の底で、ようやく一筋の光明を見出した気分だった。
何度、同じ道を辿ったであろうか。
自分の何と矮小なことであったか。
嫉妬。後悔。羨望。贖罪。やり場のない苛立ち。
だが、そういった一瞬の感情の交錯の後にフライヤの元に残されたものは、どうしようもない安心感。ただそれだけであった。
今はまだ水底から見上げたかのように頼りないものだが、それでもフライヤにとっては十分すぎるほどだった。
「私はそこまで器用ではないのじゃ…。両立が出来れば、今更いらぬ苦労はせぬわ」
細波の立つ気持ちとは裏腹に、口では最後の枷を目の前に掲げていた。
しかし、フライヤは心の何処かでその枷が叩き壊されることを望んでいる自分が居るのだということを自覚していた。
色褪せた風景が、一様に鮮やかさを取り戻す。
「両立しろとも言ってない。存在するだけだ。時々必要になれば、もうひとりに代わってもらえばいい。
 人間なんざ所詮そんなもんだ。理にかなわないようなことを平気でやらかしやがる。
 困ったときには分からないの一点張りだ。他人を見下しもするし媚びも売るだろうさ。
 だがな、そんなことでいちいち絶望してたんじゃ、気が持たんだろうが。
 どうにかして誰かに背中任せてもらう位のことはしろ。潔癖過ぎるんだよ、お前は」
今まで同じ場所にいたように思っていた仲間は、自分が気付かぬうちに随分と先に進んでしまったらしい。
時にはその背中を押していたつもりであったが、むしろ逆であったのだろう。
焔の拳士の瞳には、かつて巨大な古城を前にして放っていた拒絶の光は微塵もない。
これが、『するべきこと』を探し求めた者の回答。彼自身の答え。
してやられた。そう思うと、ついつい笑みがこみ上げてきそうになる。
「…ふふ……私も堕ちたものじゃな…。お主にそうまで言われるとはのう」
「ぬかしてろ。口を開いたかと思えば、いつもいつも胃の痛くなるような話ばかりしやがって」
サラマンダーがそのまま踵を返したことに密かに感謝しながら、フライヤは静かに頬の雫を拭ったのだった。


 未だ、その眼に光が宿ることはない。だが、それでも幼子は進む。少しずつ、だからこそ着実に。
いつか光が必要になることもあるだろう。そのときはそのときだ。
今はただ、前を見つめるだけ。例えそこに、夜よりなお深い闇が広がっていようとも。
光を失った幼子は、今再び歩き始める。自らの虚像を、その背に負って。


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